「何か御用ですか。」
金花は稍やや无気味な感じに袭おそはれながら、やはり卓テエブルの前に立ちすくんだ尽、诘なじるやうにかう寻ねて见た。すると相手は首を振つて、支那语はわからないと云ふ相図をした。それから横衔へにしたパイプを离して、何やら意味のわからない滑なめらかな外国语を一言ひとこと泄らした。が、今度は金花の方が、卓の上のランプの光に、耳环の翡翠ひすゐをちらつかせながら、首を振つて见せるより外に仕方がなかつた。
客は彼女が当惑らしく、美しい眉をひそめたのを见ると、突然大声に笑ひながら、无造作に鸟打帽を脱ぎ离して、よろよろこちらへ歩み寄つた。さうして卓テエブルの向うの椅子へ、腰が抜けたやうに尻を下した。金花はこの时この外国人の颜が、何时いつ何処どこと云ふ记忆はないにしても、确に见覚えがあるやうな、一种の亲しみを感じ出した。客は无远虑に盆の上の西瓜の种をつまみながら、と云つてそれを噛むでもなく、じろじろ金花を眺めてゐたが、やがて又妙な手真似まじりに、何か外国语をしやべり出した。その意味も彼女にはわからなかつたが、唯この外国人が彼女の商売に、多少の理解を持つてゐる事は、胧おぼろげながらも推测がついた。
支那语を知らない外国人と、长い一夜を明す事も、金花には珍しい事ではなかつた。そこで彼女は椅子にかけると、殆ほとんど习惯になつてゐる、爱想の好い微笑を见せながら、相手には全然通じない冗谈じようだんなどを云ひ始めた。が、客はその冗谈がわかるのではないかと疑はれる程、一言二言しやべつては、上机嫌の笑ひ声を挙げながら、前よりも更に目まぐるしく、いろいろな手真似を使ひ出した。
客の吐く息は酒臭かつた。しかしその陶然と赤くなつた颜は、この索寞さくばくとした部屋の空気が、明あかるくなるかと思ふ程、男らしい活力に溢あふれてゐた。少くともそれは金花にとつては、日顷见惯れてゐる南京の同国人は云ふまでもなく、今まで彼女が见た事のある、どんな东洋西洋の外国人よりも立派であつた。が、それにも関らず、前にも一度この颜を见た覚えのあると云ふ、さつきの感じだけはどうしても、打ち消す事が出来なかつた。金花は客の额に悬つた、黒い卷き毛を眺めながら、気軽さうに爱娇あいけうを振り撒く内にも、この颜に始めて遇あつた时の记忆を、一生悬命に唤よび起さうとした。
「この间肥つた奥さんと一しよに、画舫ぐわばうに乗つてゐた人かしら。いやいや、あの人は髪の色が、もつとずつと赤かつた。では秦淮しんわいの孔子様の庙べうへ、写真机を向けてゐた人かも知れない。しかしあの人はこの御客より、年をとつてゐたやうな心もちがする。さうさう、何时か利渉桥りせふけうの侧の饭馆はんくわんの前に、人だかりがしてゐると思つたら、丁度この御客によく似た人が、太い籐とうの杖を振り上げて、人力车夫の背中を打つてゐたつけ。事によると、――が、どうもあの人の眼は、もつと瞳が青かつたやうだ。……」
金花がこんな事を考へてゐる内に、不相変あひかはらず愉快さうな外国人は、何时かパイプに烟草をつめて、匂の好い烟を吐き出してゐた。それが急に又何とか云つて、今度はおとなしくにやにや笑ふと、片手の指を二本延べて、金花の眼の前へ突き出しながら、?と云ふ意味の身ぶりをした。指二本が二弗ドルと云ふ金额を示してゐることは、勿论谁の眼にも明かであつた。が、客を泊めない金花は、器用に西瓜の种を鸣らして、否と云ふ印に二度ばかり、これも笑ひ颜を振つて见せた。すると客は卓テエブルの上に横柄な両肘を凭もたせた尽、うす暗いランプの光の中に、近々と酔颜をさし延ばして、ぢつと彼女を见守つたが、やがて又指を三本出して、答を待つやうな眼つきをした。
金花はちよいと椅子をずらせて、西瓜の种を含んだ尽、当惑らしい颜になつた。客は确に二弗の金では、彼女が体を任せないと云つたやうに思つてゐるらしかつた。と云つて言叶の通じない彼に、立ち入つた仔细しさいをのみこませる事は、到底出来さうにも思はれなかつた。そこで金花は今更のやうに、彼女の軽率を后悔しながら、凉しい视线を外へ転じて、仕方なく更にきつぱりと、もう一度头を振つて见せた。
所が相手の外国人は、暂しばらくうす笑ひを浮べながら、ためらふやうな気色を示した后、四本の指をさし延ばして、何か又外国语をしやべつて闻かせた。途方に暮れた金花は頬を抑へて、微笑する気力もなくなつてゐたが、咄嗟とつさにもうかうなつた上は、何时までも首を振り続けて、相手が思ひ切る时を待つ外はないと决心した。が、さう思ふ内にも客の手は、何か眼に见えないものでも捉へるやうに、とうとう五指とも开いてしまつた。