――ある国にかつて『纏足《てんそく》』という文化が存在した。
小さな足こそ美しいとされてきた当時の価値観に則り、女性の足を幼い頃から小さく折り畳んだ状態で固定し、その状態を維持し続けることで、異常なほどに小さな足を作り上げる。
現在では受け入れがたい価値観ではあるが、当時のその国の女性たちにとっては当たり前で、纏足ができない女性が嘲笑の対象になっていたほどだという。
しかし当然、骨格を歪めるその文化には苦痛が伴い、衛生面でも危険極まりないため、徐々に薄れていった。
現代において、そのような非人道的な文化を強制する者など、まず居ない。
居ないと、信じていた――
「魔界探偵、絵に描かれていた通りです。1階の隅に、地下室へと続く扉を見つけましたよ」
私と志崎くんの会話の途中で、リビングに蒼井管理官が入ってきた。
蒼井管理官の言葉を聞いて、ただでさえ蒼白していた志崎くんの顔が、完全に色を失う。
「中は確認できたか?」
「ええ、バッチリ……あの絵と瓜二つの子どもを発見しました。例の猫用の扉を通れるほど細身の、無惨な姿で」
「な、何ですか、それ! 私は知らないわ! これは、そう! 何かの陰謀よ……!」
「見苦しい言い訳はやめろ!」
こらえれ切れず、初めて大声をあげてしまった。
椅子から立ち上がり、志崎くんの元へ歩み寄りながら、追及を続ける。
「過去を調べる過程で、キミの家系についても知ることができた。キミは……『穢れた血』だと忌み嫌われた『死崎』の血筋なのだろう?」
「ど、どうして、そんなことまで……」
唖然とする志崎くん。
その痛ましい反応に躊躇が生じかけたものの、追及をやめるワケにはいかない。
「その反応、やはり事実だったか。ならば、あのような子どもを育て上げられたことも、納得できる」
「魔界探偵、一体どういうことなんです? あの絵は? 地下に閉じ込められていた狼男ちゃんは、一体何なんですか?」
「あの絵は龍太郎の娘、ブンが描いたものだよ。彼女は恐らく、先天的な病気で一度見たものを忘れることができないんだ」
蒼井管理官の問いかけに答えつつ、テーブルの上に置かれた、獣にしか見えない“狼男”の絵に視線を向ける。
昨日、この家で志崎くんの似顔絵を見た時の違和感の正体――それは、輪郭や顔の各パーツが、異常なまでに実物と似通っていることだ。
アレは、単に絵が上手いのではなく、正確な記憶を元に写し描き《トレース》したものだからだったのだろう。
だからこそ、絵は異様に上手いのに、子どもでは目にする機会の少ない自分の名前は書けないという、妙な事態が生じていたのだ。
「忘れることができないって、それは病気なんですか? とても便利そうですけど」
「知らないのも無理はない。だが『非常に優れた自伝的記憶《HSAM》』として、医療機関で研究の進んでいる、正真正銘の病気だ」
「あ、なるほど。昨日ホトケの娘が描いた絵を調べさせたのは、この病気にかかっているかどうかを確かめるためだったんですね」
蒼井管理官も察した通りだ。
私は、自分の気付いた可能性が正しいことを確認するために、過去にブンの描いた絵も調べてもらった。
結果は言わずもがな。
だからこそ昨夜、その記憶力に賭けて、狼男の姿と、狼男を匿っているであろう地下室の手がかりを、スケッチブックに描いてもらったというワケだ。
「そして、あの『狼男』の正体は恐らく、志崎くんの産んだ子どもだろう」
「え!? 志崎さんのお子さんは亡くなったんじゃ……」
蒼井管理官が意外そうな顔で志崎くんを見る。
志崎くんは焦点の合わない目で虚空を見つめるばかりで、こちらの話を聞いているかどうかも分からない状態だ。
「死産届は出ていたが、実際には産んでいたのだろう。離婚後、両親と同居していた期間にな」
「何でそんなことを……」
「自分の子どもの障害を受け入れられなかった……違うか、志崎くん。6年以上が経った現在でも、子ども部屋を処分できずにいるのが、いい証拠だ」
生気のない志崎くんの眼球が、ぎょろりとこちらを向いた。
「どうして……私ばかり、こんな目に遭うの? おかしいじゃない……がんばって、泣いて、苦しんで龍太郎の元から離れたのに! どうして娘まで私から奪うの!? こんなの、おかしいじゃない!」
椅子から立ち上がり、志崎くんが悲鳴のように叫んだ。
ようやく、彼女の本心からの言葉を聞けた気がする。
「何をどう抗っても不幸になるなら、龍太郎も道連れにしてやるって決めたの! パパも、ママも、そんな私を助けてくれて、“とっておき”の育成術を教えてくれたわ!」
「一体どうやって育てれば、あんな異様に姿に育つんですか……? 胸骨も背骨もひん曲がって、まるで四足動物みたいでしたよ」
「纏足の要領かもしれんな」
その単語で何となく察したのか、蒼井管理官の顔が青ざめる。
「恐らく、幼い内から包帯などで子どもの骨格を無理矢理に押さえつけ、成長を阻害したのだ。例の猫用の扉を通れるようにな」
「じ、自分の子どもに、あんな仕打ちを……!?」
私の言葉を肯定するように、ニタリと志崎くんが笑う。
多数の殺害現場に遭遇してきたはずの蒼井管理官が、隣で震え始めた。
それも当然の反応だろう。
フィクションの狼男よりも、よほど恐ろしい。
私自身、自分の導き出した真相を、信じたくなかったほどだ。
「先ほども言った通り、志崎くんは『死崎一門』……政府御用達の暗殺一家の血筋だ。子どもを暗殺用に育て上げる育成術が伝承されていても、不思議ではない」
「『死崎一門』ですか……警察内でも時おり話題にあがりますけど、都市伝説だとばかり思ってましたよ」
「ふふふ、私だってウソだって思っていたわ。私は他の子と何も変わらないのに、子どもの頃から周囲から疎んじられて……恨めしく思ってた。でも、追い詰められて、血が疼くのを感じて、悟ったの」
志崎くんが鷹揚に手を広げ、恍惚な顔で語り続ける。
その姿はあまりにも狂気的。
いや、“あからさま”なほど、悲劇的だ。
「ああ、私は本当に『穢れた血』だったんだ、って! だから迷いはなかった! どんなに恋い焦がれた相手を殺すとしても! 我が子を人殺しの怪物に育て上げたとしても――」
「狂人を演じるのはやめろ」
悲劇の舞台に酔ったセリフを遮った。
「さも血のせいで凶行に走ったという口ぶりだが、6年間も準備を続け、教師として働いてこられたのだから、十分に正常だろう。お前は自らの血筋に踊らされたのではない。自らの血筋を言い訳にして、理性を捨てただけだ」
「ち、ちが、違う……! 違う、違う、違う……! 私は、私は悪くない……全部、この身体に流れる、血のせいよ!!」
志崎くんが耳を塞ぎ、かぶりを振る。
その姿は痛々しく、身を裂かれる想いがしたが、言葉は止めない。
志崎くんの両肩を掴み、焦点の合わぬ双眸をしっかりと見据え、その罪を糾弾する。
「あの子どもの育成術は『死崎』の教えに従ったものかもしれない。だが、どれほど邪悪な術を知ろうとも、己を律せる者であれば道を外さないだろう」
私にも知り合いにも『死崎』の関係者がいるが、血の衝動に悩み苦しみつつも強く生きている。
だからこそ断言できる。
「人と魔とを分かつものは容姿でも、生まれでも、血でもない……その者が持つ“心”だ。私怨に狂う獣と化して、我が子の命を喰い荒らした貴様こそが、この事件を引き起こした犯人――『狼男』なのだ!」
「ああ、ああああ……あああああああああああ……」
うめき声のようなものをあげながら、志崎くんが椅子から床へと転げ落ちた。
ガリガリと髪を掻きむしり、目の焦点が完全に合っていない。
完全に錯乱状態だ。
旧知の友人の受け入れがたい末路。
事件を解決したというのに、胸にはやるせない感情だけが残った。
「……ぁ、さ、ん」
声が聞こえた方に視線を向けると、件の『狼男』が四足歩行で部屋へと入ってきた。
生まれてから一度も斬っていないのだろう、伸ばしっぱなしの髪に、伸びすぎてグルグルと渦を巻いた爪。そして異常なまでに歪曲し、普通に立つことすらままならない骨格。
同じ現代の人間とは思えないその有様を前にすると、私は神に救いを求めずにいられなかった。
「……ぁ、さ、ん」
同じうめき声を繰り返しながら『狼男』が、床で頭を掻きむしり続ける志崎くんへと近づいていく。
そして傍らにたどり着くと、血の気のない志崎くんの頬を、ペロペロと犬のように舐め始めた。
「……ぁ、さ、ん……おか、ぁ、さ、ん……」
――母親を呼んでいる。
これほどの仕打ちを受けながらも、彼女にとってはやはり、大切な母親なのだろう。
しかし、志崎くんの耳には届かないのか、返事がない。
ブンが寝ていた子ども部屋を見ても、志崎くんは自分の子どもにどれほど愛を注ごうとしていたのか分かるというのに。
道筋を踏み外した今、この二人が普通の親子のように暮らすことは、決してない。
あまりにも悲劇的な結末であった。
「魔界探偵……ありがとうございます。あとは私たち警察で何とかしますから、ホトケの娘をこの家から連れ出してもらっていいですか?」
苦々しげな顔で蒼井管理官が言った。
流石は警官だ。
既に、私的な感情を頭の隅に追いやって、事後処理に入ろうとしている。
私は頭を下げると、二階の子ども部屋へと向かった。
扉を開いて、明かりのついていない暗がりの部屋の中で、ブンと対面する。
「……昨夜の協力、感謝する。キミの協力のおかげで、無事に『狼男』は逮捕することができた」
ブンの表情に悲しげな色が滲んだ。
きっと幼いながらに、自分の担任教師が犯人だということを、察していたのだろう。
事件は真相にたどり着いたが、彼女の物語は続く。
舞台上の演劇とは異なり、人生は悲劇的な運命をたどろうとも、生きていく他ない。
むしろ、大切なのはここからだ。
そして彼女を支える役割を担えるのは、龍太郎の親友である、私しかいない。
――そろそろ、おしえてください。
――あなたは、いったいダレなんですか?
スケッチブックに文字を綴って、ブンが問いかけた。
私は微笑みをたたえ、そんな彼女にそっと手を差し出す。
「昨日も言っただろう? キミを迎えに来たピーターパンだ」
「……バカ」
初めて声を発した少女の手が、私の手に重なる。
そして手を重ねたまま、壊れた窓から射し込む光で照らされた廊下を、二人で歩き出した。
――END